家鴨DIARY

クリィミーマミサークル「ANP」家鴨のブログです!情報発信とかしています!

少女論に思ふ

ファンを新しく交換。メモリーもグッと増えました。
日記のコンテンツ部分の日にちの更新できなかったので
3/12のままです。


マミのお歌の件ですが、まだ、お申込がありません。
まだ公開して3日くらいだから仕方ないのでしょうか。
礼金をはっきり出した方がいいのかなあ?


さて、土曜日は広島の友人が東京に来ていまして、4時間ばかり、
仕事の前にお話いたしました。


その中で「自分はやはり自分でいたい」という話題が出たのです。
私たちはやはり人から「何歳だから○○だ」とか「○○さんの
外見は○○だから○○だよね」と周りに決め付けられたり、
思い込んだりする事が多いのではないでしょうか。


ここ最近、自分は無理に「大人」になろうとしているのかも?
と感じる事があります。もちろん、大人にならなければいけない
のですが、他人には関係のない領域は別なのではないかと・・・。


例えば、先日読んだ、大塚英志
『「おたく」の精神史 一九八〇年代論 』
の中で、漫画家の岡崎京子が、大塚英志が彼女のエッセイ漫画に
つけたタイトル「ひっばあじん倶楽部」を見て、だいたいこんな
感じな事を言ったようです。


「少女と女を男は分けたがるけど、女は少女の部分も大人の女の部分も
 女になったら変化する訳ではなく、共存したままなんだ」


若干、家鴨の表現に変わっていることは御了承ください。
でもね、そうだよなあ。と妙に納得してしまった。
おばちゃんにだって「少女の部分」は残ってるんだよねえ。

無理に分別のあるような、ふんわりした夢のような部分が
ないふりをする必要性も無いのに、女性はそれを演じようとしている
のかもしれないなあ。


何故に殿方は「少女」が特別な存在だと考えるのでしょうか?
少女の時に別に特別神秘的な事なぞ、考えていなかったし、
純粋でもなかったような気がします。


むしろ、今と同じようなことを考えて、結構どろどろしていた
ような気がする。


男性たちが作り上げた「少女像」(またはそのイメージにinspireされた
女性たち)に「大人の女」たちは、その虚像を本当の「少女」だと思い込み、
かけ離れてしまった自分をひどく汚く、惨めなものだと感じてしまうの
かもしれません。


「少女」という概念は、やっぱり男側のファンタジーなのかも・・・・
と思っていたら、昨日買った飯沢太郎さんの「少女古写真館」の中で
飯沢さんと詩人の伊藤比呂美さんがまたまた言ってくれました。


飯沢さんが、昔の少女の写真を見て、


「この憂いた表情がいいでしょう〜」


って言っても、伊藤さんは、


「ただのガキじゃん」


と吐き捨てる潔さ!


「でも少女時代って衝動に溢れてるでしょ?」

と飯沢さんが問えば、


「そんなもんでもなかったよ。それは男のファンタジーだよね」


と言った感じで切替す。


勝手に少女は特別・・・・・だなんて決め付けられて、
大人になったら、おばちゃん!なんて、キミたち私たちの心の中
までは知らないだろう?と20代の頃は思ってました。

そうなんだ。
少女時代の心も持ちながら、大人でもある。
女の人がいつまでも可愛い物を愛でながらも、雑多な事を
やりこなせるのは、どちらも共存しているからなのだと
改めて思いました。


ああ!長くなってしまった。
力説しすぎてしまったけど、上手く伝えられなかったような気がします。